Dicke のSuperradiance -1

自由電子レーザ(FEL)は、ある条件下で superradiance 発振を行うことが知られている。superradiance FEL は、光に関する現象 “superradiance(超放射)”から名前を拝借したものであり、superradiance FEL を学ぶ前に、本家の superradiance を知っておく必要がある。

レーザーハンドブック(レーザー学会、昭和57年発行)の説明によると、

超放射(superradiance)は完全反転分布した多数の2準位原子からの協同放出である。同種の原子の集合した系では、原子は系の内部で放出された放射場によって互いに共鳴的に強く結合することができる。その結果、十分大きな原子数密度では、完全反転分布した2準位原子系は自然放出の過程で位相のそろった巨視的分極を形成し、強い放出状態になる。この状態を Dicke は1954年に superradiant(超放出状態)と呼んだ。

とある。さて、この説明だけでは何のことやらさっぱりわからない。
Robert H. Dicke のオリジナル論文は Physical Review 93, 99-110 (1954), Coherence in Spontaneous Radiation Processes であるが、これを読み解くのも敷居が高い。

ここでは、原子数が2の場合からはじめて、N個の場合までの「協同放出」の原理を説明したい。以下の文献を参考にした。

[1] L. Allen and J.H. Eberly, “Optical resonance and two-level atoms”, Dover Publications, Inc., New York (1975)
[2] M.G. Benedict, A.M. Ermolaev, V.A. Malyshev, I.V. Sokolov, E.D. Tifonov, “Super-radiance mutliatomic coherent emission”, IOP Publishing Ltd (1996).

二凖位系における光の放出/吸収を伴う遷移

2つのエネルギー準位をもつ原子があり、下準位の固有状態を \ket{g}、上準位の固有状態を \ket{e} とし、それぞれの準位のエネルギーを E_gE_e とする。

2level-2

このような二凖位系において、光の放出/吸収を伴う準位間の遷移を考える。

光の電場による摂動を含んだハミルトニアンは\hat H = \hat H_0 - \hat d \cdot \hat E と書ける。ここで、\hat H_0 は電場がない時の非摂動ハミルトニアン、\hat d は原子の双極子モーメントの演算子である。

\ket{e}\ket{g}\hat H_0 の固有状態であるから、

\braket{e|\hat H_0 | e} = E_e

\braket{g|\hat H_0 | g} = E_g

\braket{e|\hat H_0 | g} = 0

\braket{g|\hat H_0 | e} = 0

である。

準位間の遷移は \hat d によって表され、

\braket{e|\hat d | e} = 0

\braket{g|\hat d | g} = 0

\braket{e|\hat d | g} = d

\braket{g|\hat d | e} = d^*

である。d は遷移双極子モーメント(複素数のスカラー量)で d = d_r + i d_i と書ける。

原子が1個のみ存在する時、上準位の存在確率は時間とともに指数的に減衰する。

\displaystyle \frac{P_e(t)}{dt} = -\gamma P_e(t)

\gammaは単位時間当たりの遷移確率(アインシュタインのA係数)であり、 D^2=d_r^2 + d_i^2に比例する。

\displaystyle \gamma =  \frac{D^2 \omega^3}{3 \pi \epsilon _0 \hbar c^3}

ここで、\omega = (E_e-E_g)/\hbar である。

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FEL、特許裁判、南極…

1971年のFEL論文に関する話題は、前回の記事で一段落したが、Madey について少しばかり余談を続けたい。

加速器の世界では、Madeyといえば、FEL、そして RF電子銃の発明者であるが、法律家の世界では特許の歴史を変えた判例で、その名を知られている。

Duke 大学を半ば追われる形で退職し、Hawaii 大学に移った後、Madey は Duke 大学に対して、自身のFELとRF電子銃に関する特許を使わないよう訴えを起こした。それまでの特許法の解釈では、大学は非営利活動としての学術研究においては、特許法の例外として、他人の特許を許諾なしに使ってよいとされていた。Madey の裁判で合衆国連邦巡回区控訴裁判所(日本の知的財産高等裁判所に相当する)は、大学の学術研究は、優秀な学生を呼び込む、研究資金を集めるといった大学の運営と直結しており、特許法の「非営利活動」に無条件で当てはめるのは不適当とし、Madey の訴えを認める判決を下した(2002年10月)。これにより、大学の研究活動における特許の扱いが根幹から変えられることとなった。米国の法学部の授業や演習で取り上げられる有名な判例である。

もうひとつ、Madey がその名を残しているのが、南極にある Madey Ridge (Madey 尾根) だ。

1957年から1958年まで、国際地球観測年として、世界の主要国が南極探検を行った。日本が南極観測船「宗谷」を送り、昭和基地を建設した歴史は、映画「南極物語」に描かれている。米国は、国際地球観測年に合わせて海軍を南極に送り、マクマード(McMurdo)基地の建設を行った。

この当時、13歳のJohn Madey 少年は、3つ年上の兄 Jules とともに、アマチュア無線に夢中になっていた。兄弟は自宅の裏庭に建てた高さ110フィートの鉄塔アンテナを使って世界中の無線家と交信を楽むうちに、南極隊員との交信に成功する。自慢の鉄塔アンテナの威力もあり、南極との交信感度は、米国本土の無線家の中でも群を抜いていた。Madey 兄弟の無線機は、電話機を接続することが可能であったことから、南極隊員の求めに応じて、コレクトコールで隊員の家族宅に電話をつないで、隊員と家族の会話を中継した。会話の区切りの”over”の合図のたびに無線機の送信と受信を切り替える必要があるので、Madey 兄弟は毎晩遅くまで無線機の前に張り付いて操作を続けた。アマチュア無線は南極隊員と家族をつなぐ唯一の交信手段であったので、数百人の南極隊員に、Madey 兄弟を知らぬ者はおらず、この協力に感謝して基地近くの尾根に Madey Ridge の名を付けた。

南極についての上記の逸話は、米国南極観測プログラムのホームページで紹介されている。
Young ham radio operators kept IGY crew in touch with friends, family

南極の話で終わってしまうと、「電子ビームと光の物理」にならないので、最後に Madey の言葉で締めくくりたい。

 “accelerator (and FEL) physics are not isolated disciplines dedicated only to the construction of ever larger and more expensive facilities, but are an intrinsic part of the academic enterprise dedicated to the understanding of the most fundamental principles and phenomenon of electrodynamics. But since we are many times seen by our peers as the designers and enablers of the increasingly complex facilities they need for their research, we are, I fear, at risk of being thought of by our peers more as engineers and technicians than scientists. It therefore appears that, from time to time, we need to gently remind our colleagues that while we are happy to collaborate with them in the development of the facilities they need for their research, we have our own equally fundamental scientific and academic aspirations.”

これは、Engines of Discovery: A Century of Particle Acceleratorsという書籍中のMadey の人物紹介コラムからの引用である。Andrew Sessler とEdmund Wilson によるこの書籍、「物理帝国主義」のさらに上を行く「加速器帝国主義」のような題名であるが、貴重な写真と多くの人物紹介が楽しめる。

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John M.J. Madey によるFELの最初の論文(1971)-13

Madey による回顧録

最近になって、Madey 自身による FEL 発明に関する二篇の回顧録が出版されている。ひとつは、“Invention of the Free Electron Laser”, Review of Accelerator Science and Technology (2010) 、もうひとつは、“Willson Prize article: From vacuum tubes to lasers and back again”、Physical Review ST-AB 17, 074901 (2014)である。

これら回顧録から、Madey が FEL を着想するに至った道筋を辿ると、およそ、以下のような流れになる。

  • 少年時代、アマチュア無線に夢中になり、真空管に興味を持つようになった。隣人であったPrinceton 大学の関係者を通じて、当時最新の真空管技術に親しんだ。
  • カリフォルニア工科大学へ入学する前年のMaimanのルビーレーザーの発明に触発され、誘導放出の現象に関心を持ち始めた。
  • 学部指導教官であったAlvin Tollestrupの指導のもとCalTech Synchrotron Laboratory での放射光の観測実験、修士課程の指導教官であったAmnon Yariv のレーザーの講義などから、制動放射(放射光)を使ったレーザーができないか考え始めるようになった。
  • 学部時代の夏期実習でBNLに滞在したおりには、John Blewett、Ken Green、Renate Chasmanらと、電子ビームがコヒーレントに光を放射できるか議論をした。
  • Stanford に移った後の博士課程の講義でWeizsacker-Williams method を学び、制動放射(アンジュレータ放射)を使った誘導放出の解析にこの手法を応用することでFEL の動作を明らかにし、論文発表と特許申請を行った。

自身の1971年論文については、以下のように振り返っている。

まず、先行するMotzやPhillipsの古典電磁気学に則った電磁波源(アンジュレータ、ユビトロン)の動作が量子力学で記述できることを示したこと。さらに、古典電磁気学による電磁波源の解析の一般的なやり方である、電流源の定式化=初期条件と導波管=境界条件の設定、J * E による電磁波増幅の計算といった手法を使わずに電子ビームによる電磁波の増幅を示したことは、open resonator (導波管ではない光共振器)による短波長レーザーへの道を開いたこと。これらの点が1971年論文の意義であった。

1971年論文で言及のなかった、Motz、Phillips の研究(アンジュレータによる電磁波の増幅)については、「FELにつながる萌芽的な業績であった」としながらも、「自分は、1971年の時点で、これらの研究は知らなかった。もし知っていたとしたら、彼らの解析手法を単になぞるだけで終わってしまい、短波長でも動作可能なレーザーを電子ビームで作り出すFELのアイデアには到達しなかっただろう」と書いている。

また、”Free Electron Laser” の命名については、H. Dreicer の論文、Kinetic Theory of an Electron‐Photon Gasで議論されている磁場中を運動する自由電子によるCompton散乱=free-free transitionの関係に関する記述から着想を得たとある。

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John M.J. Madey によるFELの最初の論文(1971)-12

ここまでの一連の文章は、内容を決めずに書き始めたものである。「FELの最初の論文(1971)」と題するのは適当でないところまで脱線しているが、切りのよいところまで続けることにする。

1976年の会議録

1976年に開催されたレーザーの会議(The US Army Sponsored Symposium on New Laser Concepts at Redstone Arsenal, Alabama, Nov. 11-Dec. 2, 1976)の一部として、Cooperative Effects Meeting が開催され、その議事録が出版されている。
“Cooperative effects in matter and radiation”, (1977)

1973年に初めて実験で観測された superradiance現象について議論するのが主たる目的であったが、P. Meystre によるFEL に関する発表もあり、その年にOpt. Comm.誌に彼らが発表した古典力学によるFEL解析について述べている。Madey は発表者ではなかったが会議には参加しており、Meystre の発表についてコメントを発している。会議録は、発表者の論文以外に、数編の追加論文が所収されており、Madey の論文も含まれている。

Madeyの論文、”Free Electron Lasers” で彼は、”The classical approximation”, “Applicability of the classical approximation” といった節を立てて、FELの古典力学解釈の限界について、1973年のFEL論文と同様な議論を繰り返している。この時点では、古典力学による FEL の動作解析に一定の価値を認めながらも、量子力学解釈の必要性をなおも捨てていない。

すでに記したように、1978年の Nuovo Cimento 論文で、Madey は古典力学を使って Madey’s Theorem を導出している。1976〜1978年は FEL の古典力学的解釈が一気に広まった時期であり、Madey 自身の考え方も、この時期で大きく変わったのだろう。

ところで、上記の会議録(論文集)では、巻末に議事録がついている。

よく知られているように、superradianceの現象はDicke が1954年に提唱したものだが、実験による確認は、MITのMichael S. Feld らによる1973年の報告が最初である。議事録では、M.S. Feld と、後年FELでも大きな貢献をすることになるRodolf Bonifacioらによる熱い議論の応酬を垣間見ることができる。

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John M.J. Madey によるFELの最初の論文(1971)-11

Madey の1971年の論文に端を発した、FELの動作解析に関する量子力学と古典力学の論争について続ける。

Hopf -Meystre-Scully-Louisell論文


Classical Theory of a Free-Electron Laser

F.A. Hopf, P. Meystre, M.O. Scully and W.H.Louisell
Optics Communications, 18, 413 (1976)

4名の著者のうちHopf、Meystre、Scully は、Department of Physics and Optical Sciences Center, University of Arizonaの所属である。Scully は同じ研究科のWillis Lamb(ラムシフトでノーベル物理学賞を受賞)と共著でレーザーの教科書を書いている。Louisell はUniversity of Southern California の所属で、こちらも教科書の著者である。レーザー物理の大御所を含んだ4名による論文と言ってよいだろう。

Hopf らは、電子の縦方向位相空間における分布を計算する無衝突ボルツマン方程式とレーザー場の成長を計算するマクスウェル方程式を連立させる方法、つまり、完全な古典力学を用いてFELゲインを求めた。求められたFEL ゲインは、量子力学により求めた Madey の式とファクター 0.8 の差で一致した。Hopfら の結論は、「FEL の動作は古典力学で記述でき、電磁波の増幅は量子力学的描像=Compton 散乱の反兆というよりは、進行波管と同様の電子の集群作用で説明できる」というものだ。

これにより、FEL 動作解析における、量子力学 vs 古典力学の論争は決着した。意外なことに、この決着は Stanfordにおける最初のFEL 実験(CO2 レーザーの増幅)よりも後のことである。

ところで、この論文は、Opitcs Communications と Physical Review Letters に二重出版されている。PRL には Erratum が付き、

This paper was printed as a result of a misunderstanding, and duplicates material published elsewhere. Persons wishing to refer to it should cite the original publication, Opt. Commun. 18, 413 (1976), and not this journal.

とある。それぞれの投稿記録を見ると、Opt. Comm. が 1976年5月13日に投稿受け付け、9月号に掲載、PRL が同年8月13日に投稿受け付け、11月1日号に掲載である。”misunderstanding” とは、Opt. Comm. がリジェクトしたと誤解したのだろうか?現在のようなe-mail やオンラインによる投稿、査読システムのない時代であったにせよ、珍しい例といえよう。

上記の Erratum にもかかわらず、PRL の威光のためだろうか、二重投稿のPRL論文を引用する例が、いまだに後を絶たない。

ちなみに、第二著者の Pierre Meystre は2013年から、PRLの編集長(Lead Editor)を務めており、つい数日前には、以下のような編集コラムを発表している。

EDITORIAL

Refereeing Revisited

September 8, 2015

Pierre Meystre discusses how authors, referees, and editors need to work together for peer review to function well.

当然であるが、二重投稿を薦めるような一文は入っていない。

[追記:2016年11月30日] 

上の記述に間違いがありました。論文の二重掲載は、著者による二重投稿ではなく、Physical Review Letters 編集部の手違いが原因です。詳細は、この記事を参照。

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